第1回 ダリウス・キンゼイ写真集(1984年、アボック社出版局)

ダリウス・キンゼイ(1869~1945)は、森の写真家である。キンゼイは、1891年から1940年にかけてのおよそ半世紀、アメリカの大森林地帯に分け入って、巨木を伐採する人々の姿を撮り続けた。11×14インチの「エンパイア=ステート」カメラ(または20×24インチ)の大型写真機や、フイルム、ガラス乾板、大型三脚などの撮影機材、生活道具一式を背負い、あるいは牛馬に積んで未開の森林、山々、氷河地帯に分け入っていく「冒険の旅」でもあった。

そこで写し出されたものは、古代の森を覆い尽くす巨大な樹木と、その樹木に巨大な裾と斧で挑む樵(きこり)の男たちの姿だ。あるいは、そうした男と暮らす家族の姿だったりする。

キンゼイが撮影した森は、多くは北アメリカ西部のカスケード山脈一帯だった。この地域の巨樹はモミ、ツガ類のウエスタン・レッド・シーダーやジャイアント・ファー、ウエスタン・ヘムロックなどが主で、直径20フィート(約6m)、樹高も350フィート(約105m)に達する木がザラにあった。

この本のページをめくっていって、まずその樹木の巨大さに度肝を抜かれる。樹齢数千年を経ているであろう巨樹群は、地面に根を生やしているというような生易しいものではなく、地球内部のとてつもない圧力で、地殻が捩(ねじ)り上げられて地上に隆起してきたような、苦悶の表情を見せながら宙を掴(つか)もうとしているかのようだ。

そうした、かつてのアメリカの原生林を支配していた巨樹の凄さは、現在でもジョン、ミューアの自然保護運動によってかろうじて守られた、ヨセミテ国立公園のセコイア杉で偲ぶことができる。その巨樹を目の当たりにしたとき、その巨大さもさることながら、大地から隆起した岩石のような根や、恐竜の分厚い皮膚のように角質化した幹は、もはや樹木という概念を超えて、圧倒的な威圧感を漂わせている。それは、日本人には馴染み深い屋久島の縄文杉が、ようやく根をつけたばかりの幼樹に見えるほどの迫力がある。

アメリカの古い本を見ると、一本の木が大きな家一軒分の建材になったといい、壁板や板屋根用の柿板(こけらいた)が4万枚製材できた。また、人間の想像力を超えた巨樹を見せ物にして、町を巡回して歩く興行師もいたほどだという。巨樹を伐採する際に、うまく倒さないと、木の重量による衝撃で、木がバラバラに砕けてしまうという話も聞いたことがある。

キンゼイのカメラの先には、そうした驚愕される巨樹が、現実の姿として立ちはだかっている。そして、レンズは、その巨樹に鋸や斧を手にして挑む男たちの姿を写し出している。男たちは、巨樹の根元に群がり、あるいは幹に斧を打って、その切り口に板を打ち込んで足場にして、さらに上に鋸を入れ、斧をふるう。その幹を三角に切り込んだ受け口で、5、6人の男たちが寝転んでいる写真もある。その大きさの対比は、巨象の足に群がるアリのようだ。その大きさの対比は、巨象の足に群がるアリのようだ。

見る者は、最初にまず、そこに素朴な驚きと感動を覚える。だが、ページをめくるうちに別の感情が芽生えてくる。それは、何より確かな事実として、その一見不毛な戦いを挑んでいるようなアリの群れが、巨象を倒してしまうということだ。

それは、日本人に、縫い針の刀で鬼退治をする一寸法師のおとぎ話を連想させる。類似した話に「田螺(たにし)長者」や「親指太郎」「親指姫」「かぐや姫」、あるいは「コロボックル」などがあり、民俗学では「小さな子」の物語と総称されている。
日本神話まで遡る。
小子部神(ちいさこべのかみ)が、三輪山の神である蛇を捕られてくる話や、高皇産霊尊(たかみぬすびのみこと)の指の隙間からこぼれ落ちた神「少彦名神(すくなびこのかみ)」が、出雲建国に活躍する話などがあり、小さい子が特殊な霊力を持つという「小さ子」説話は、世界各地に共通しているともいわれる。

そういう視点から見ると、太古の森の巨木に挑む人間は、まさに「小さい子」であり、その姿を写真に写そうとするキンゼイも、その一人だ(キンゼイは、実際に特別小さい人だったらしい)。その一方で、アメリカの森に棲む巨人ポール・バニアンや日本のダイダラボッチなどの伝説がそうした巨人伝説もまた、小さい子からの視点に立っている。

小さい子が、小さいゆえの特別な能力で、巨きなものを倒し、征服していくという物語は、人間の潜在的な憧れなのかもしれない。相撲でも、小さい力士が大きい力士に勝つと、拍手喝采をする「判官びいき」というのがある、といったら蛇足にすぎるだろうか。

その時代は、まさに新大陸アメリカの黎明期(れいめいき)である。スコットランドやアイルランドなどからアメリカ大陸に渡ってきた人々が、西部へと開拓の手をのばしていく。船で大陸に渡ってきた人たちにとって、未開の大自然は息を飲むほどにとてつもなく巨大な存在だったに違いない。だが、もともと「文化人」であった彼らは、人間中心の宗教を背景にして、自然と共存するより、支配の方向に向かっていった。地球上のあらゆるものの生殺与奪の権利は、神に似せて作られた人間に与えられていると信じた。

そして彼らが手にする道具が、鋸や斧からチェーンソーや製材機に変わり、大型化していく。搬出するための手段が牛馬から機関車に変わっていく。機関車は、森を切り開き、峡谷に掛けられた橋を渡って町まで一気に運ばれていくようになる。それらは、産業革命以降の発達進歩の象徴であり、文明という破壊の力でもあった。

アメリカ大陸において、人類が恐れた原初の自然、未開の奥地が伐り払われ、先住民のインディアンも土地を追われた。1930年代に、早くもアメリカのフロンティアの消滅が宣言され、シアトル近郊は1930年代には完全に開拓されつくされたといわれている。

キンゼイという写真家も、そうした歴史の証言者だった。同時に、第三者的な立場が許されない現場の人間でもあった。

『森へ』の本の前半部分に、写真とともに語られる彼の生い立ちを見ても、町でホテルや商店、写真館などを営む成功した入植者の家族であり、森に入って写真を撮りはじめた動機も「巡回写真家」という意味合いが強かったようだ。キンゼイは、森林奥地の、開拓の最前線に自ら出かけていき、そこで働く男たちを撮った。

無惨な切り口を開けられ、根を切断されて横たわる巨大な骸(むくろ)の前のポーズを取る男たちの表情は、強く逞しい自信に満ちている。祖末な小屋に住んで、男たちを支える女や家族の顔も誇らしげだ。男が男として、女が女として生きられた時代だった。

キンゼイもまた、そうした人々を賞賛するような写真を撮っている。伐採した巨樹の根に屋根をかけた小屋や、丸太小屋、板を打ち付けただけの家に住む家族の姿には、貧しいながらも、人生を悲観した暗さは微塵もない。

キンゼイは、森の奥地を「巡回」して写真を撮ると、その場で注文を取り、そのフィルム、乾板を町の妻の元に送った。それを妻のタビザが素早く現像プリントをしてキンゼイに送り返した。タビザは約50年間、暗室に籠もって現像作業をしてキンゼイを支えた。今日、現存しているガラス乾板のフィルムのネガは11判型で約4500点にのぼるといわれる。

その写真を買い求める人たちの心理を想像すると、写真には、自分の栄光の姿が写っていただろうし、それは未開の地を開拓していく自分の力の確認であり、遠く離れた故郷に送って誇示できる証明でもあった。それは、どこか戦場の兵士に似ている。その意味では、キンゼイは戦場カメラマンだったとも言える。

だが、この写真集を見ていくと、キンゼイの写真が変わっていくのが分かる。
最初は、樹木の巨大さと対比させながら、フロンティアを賛美する記念写真的だったものが、後期にはズームバックして森を撮る記念写真的な視点に変わっていく。

重複するが、分かりやすく言うと、最初は樹々の巨大さに圧倒され、その現実に力を注いだ。それは、そのままそこで働く人々への賞賛や共感となって現れる。次第に奥地へ、そして高所へ移動する伐採現場とともに、険しい道や雪山を超えて分け入っていく人々、その森の中の厳しい生活に、キンゼイの深い愛情が滲み出ている。キンゼイを奥地に駆り立てた源泉もそこにあった。

開拓のエネルギーと生への讃歌、破壊という暴力性への本能と陶酔といった事柄は、初期においては悪ではない。それは、未来への進歩、発展、希望に繋がっている。そして、こうした行為が、人力で成されているうちは、自然の可逆性の範囲を超えることがない。同じ環境を共有する、生きとし生ける者の権利と義務が相殺されている間は、「生産」と「消費」と「還元」の、自然の因果律が維持されている。つまり、うまく「折り合い」がついている。

しかし、機械が大型化され、合理性、効率優先になると、森の破壊が加速していく。一本の樹木を伐採するのに、男数人でも何日もかかっていたものが、機械でアッという間に伐り倒されてしまう。倒した巨樹を運び出すのに大変な苦労と日数を費やしたものが、鉄路と貨車でその日のうちに町へ運ばれていく。

搬出手段の変化は、必要な樹木だけを伐り出す仕組みから、森そのものを伐りつくし、すべてを持ち出し、あるいはいらないものは打ち捨てていく仕組みへと変わっていく。森が、単に生産物としか見られなくなる。

それは、近代の日本の森林事業でも盛んに論議され、問題視された「皆伐造林法」が、すでにこの時代のアメリカで行われていたわけで、現代人は何を学んできたのか考えさせられる。

キンゼイは後期には、樹木の巨大さを表現しながらも、失われていく森や樹木を惜しみ、それを記録に残そうとする意図が強くなって行く。それは、文明の進歩や繁栄を追求する陰で行われている自然破壊への鎮魂と贖罪(しょくざい)なのかもしれない。

キンゼイの視点の変化は、写真家としての、そうした原罪意識に繋がっているのかもしれない。キンゼイ自身、その現場に立ち会って「記念写真」を撮って生業(なりわい)を立てている人間として、傍観者の位置に逃げ込むことは許されないのは自明であり、写真家としての「良心」としても、正常な感覚だったのではないだろうか。

何故なら、斧や鋸、チェーンソー、製材機、貨車などの進化していく道具と同じように、それらを写し撮った写真の背後にも、写真機という道具が潜んでいるからだ。どんなに巨大な森や樹木でも、あるいは、その根元で小人のように右往左往する人間たちでも、撮る側からは同じ被写体でしかなく、その拡大、縮小のパースペクティブの権利は写真家に握られている。写真機の暗幕を被ってファインダーを覗いている世界は、上下逆さまの異次元の映像でしかない。だから、写真家の意思で、どうにでも切り取ることができる。

キンゼイのどの写真を見ても、広大な森林のどこにも影一つ写っていないことの、素朴な違和感も実はそこにあるような気がする。(実際にキンゼイの写真には、一切の影が消されている)。樹木が鬱蒼と繁った森から影を取ってしまったら、そこに描かれたものは、鳥も動物も棲まない舞台装置の森でしかない。

あくまで一般論として、暗い影に飲み込まれた領域にこそ真実が潜んでいると思うが、その影をすべて消した世界に、キンゼイは何を描こうとしたのか。あるいは、それは単に写真機の性能のせいなのか。しかも、もし、暗い森を長時間露光する必要があったとしたら、そこに写り込んでいる人たちも、長い時間にわたって同じポーズを強要されていたことになる。キンゼイは森のどこに焦点を絞っていたのか。

写真機自体もドンドン進化していく。キンゼイの写真を見ていても、50年の間のカメラの進化が分かるし、3メートル半の蚊トンボのような三脚や、新しい機材が奥地にまで持ち込まれていく。その機材の重量は1トンを超えたともいわれる。運搬には肩に担ぎ、人夫を雇い、牛馬が使われたが、次第に自転車や、汽車が使われていく。

キンゼイを非難しているわけではない。時代の黎明期に生きた人間として、当然の帰趨であったと思う。それは、森林の奥地にいようが、町にいようが、同じことだ。そして、キンゼイの表現者としての変化もまた、素直に共感できる。そういう意味で、この写真集は、森の記録であると同時に、キンゼイ自身の人生の記録なのかもしれない。

この本は横25センチ、縦34センチ、257ページ、ハードカバーの長大な写真集だ。もう数十年前に購入した本であるが、ときどき一人でページを開いて見入ることがある。そこに写し出されている森や、巨樹の伐採現場の写真の世界は、時代も、国も、遠い出来事でありながら、時空を超えて生々しく迫ってくる。

それは、たかだか100年前の教訓さえ学ばずに、同じ過ちを繰り返している現代人への厳しい叱責のような気がするからである。他人の事ではない。自分自身への戒めとしなければならない。

この本の写真をジッと見ていると、その背後に写真機が隠されていて、キンゼイが向こう側から自分に焦点を合わせているような錯覚にとらわれることがある。

何度も言うが、キンゼイは記念写真から記録写真へと視点を変えた。それは、もしかしたら、現場から「未来」を写そうとする、「記録写真の可能性」を信じたのかもしれない。写真の向こう側から、自分が見られている、という感覚。

写真というのは、やっぱり魂を吸い取ってしまう恐ろしい機械なのかもしれない。

2013年6月 遠藤ケイ