ゲル(円形テント)とトーノ(天窓)の神聖な火

モンゴルの遊牧民の住居は、ゲルと呼ばれる円形のテントだ。「ゲル」は、モンゴル語で「家」を意味する。中国では包(パオ)という。「包」は、文字通り「包(つつむ)」で、家族や民族の連帯や団結を表している。

ゲルは、家族構成によって大きさはさまざまだが、小家族ならゲル一張りに家財道具一式を収納し、家族全員が体を寄せ合って住み暮らす。

遊牧民は、羊などの家畜の餌となく草を求めて、冬営地と夏営地を移動して暮らしている。住居であるゲルは、そのたびに解体して運び、また組み立てる。いまは、移動に車を使う遊牧民も多いが、かつては一切合切の荷物を積んでラクダに引かせた。そのため、生活道具はゲルに収納できるもの以外は増やせない。人間が生きるのに、何が必要で、何がいらないのかが常に問われる。簡素にして、欲少なく生きることが遊牧民の知恵だ。そこでは、家族の団結が力だ。

遊牧民の生活は、馬、牛、羊、山羊、ラクダの五畜に大きく依存している。家畜の肉や乳は食を支え、毛皮は衣に、毛はフェルトに織られて住居になる。

農耕はほとんど行われていない。モンゴルの広大な大地は、もともと酸性土壌で、作物が育たない。また、表土が薄く、養分が乏しい。安易に掘り起こすと、かろうじて根を張っている草を枯らしてしまう。土着の微生物を含めた生態系が崩れ、それによって土が流れ、砂漠化する畏れがある。農耕や定住が難しい土地なのだ。

モンゴルの大草原を「草の海」などと表現する者もいるが、遠望すると見渡す限りの草原が広がっているように見えても、間近かの足元を見ると、無精髭のような痩せた草が、まばらに生えているだけだ。その草を家畜が食う。一ヶ所にとどまれば、草を根から食べ尽くして生えなくなってしまう。そのために、遊牧民は移動生活を宿命づけられる。ゲルには、遊牧民の不屈の魂と、生存の英知が詰まっている。

地の果てを知らないような大草原をさまよっているときに、彼方にポツンと立つゲルを発見したときの喜びは計り知れない。

一見、真っ平らに見える草原は、ゆるやかに波打つような起伏が続く。一つのうねりを越えると、また先に新たな大草原が広がっている。何日も旅を続けていると、方向感覚が狂い、自分がどこにいるのか分からなくなる。どこが中心で、どこが周縁なのかも分からない。とりあえず、自分を中心軸に据えるしかない草原の曼荼羅宇宙。一体、人はどこにいるのか?

そんなときに、遠くに遊牧民のゲルが目に入る。ポツンとした白い点が、だんだん丸いふくよかな大地の突起物になり、横臥した妊婦の乳首のように見える。柔らかい緑の体毛に包まれて隆起する大地は、地上のあらゆる生命の種子を宿し、胎児を産み落とそうとする地母神の姿を連想させる。

ふくよかなゲルのてっぺんの、乳頭の先から短い煙突が覗き、白く濁った煙を吐き出している。その煙が、寒々とした草原の朝に、火と団欒の暖かさを漂わせて、旅人を誘っている。

ゲルの中は、ストーブが焚かれていて暖かい。モンゴルの東南部は内陸型の気候で、乾燥していて寒暖の差が激しい。昼間は40度にもなって肌が焼けるのに、夜はマイナス30度以下に下がって凍える。夏でもアラレや雪が降ったりする。料理もカマドやストーブでするので、一年中ゲルに火を絶やせない。

調理用のカマドと兼用のストーブは、円形のゲルの中心に置かれている。ゲルの入り口は必ず南向きにつけられ、入口から入って正面の北側の奥が「ホイモル」と呼ばれる主の場所で、主人用の簡易ベッドや、アブダルという派手に彩色された長持ちタイプのタンスが置かれ、先祖の仏壇や家族の写真などが飾られている。

入口の左側が、女や子どもの場所で、調理用の道具や食器がここに置かれる。日当たりがよく、チーズや馬乳酒が発酵しやすい。それを管理するのが女の仕事だ。

ゲルの西側が客や男の場所で、ベッドや馬具などの道具が置かれている。初対面の客はそこに座り、大鍋で沸かしたスーティーツァイ(乳茶)や、発酵した乳酒の搾り粕を天日で干したアルルと、作りたてのバターでもてなされる。客は、お返しにハダク(青い絹布)を送るのが礼儀だ。

一連の儀式が終わると、客が望めば食事も提供してくれるし、宿泊も歓迎される。移動生活をする遊牧民は、いつ、どこで誰の世話になるかもしれない、客を大事にする。また、客は国内外で起きている出来事を知る大切な情報源でもあり、民族内の連絡網でもある。

余談だが、以前、シリアを旅していて、首都のダマスカスで遊牧民であるベドウィンの首領に挨拶をして出かけたら、数日後に数百キロ離れた砂漠の真っ只中で偶然出逢ったベドウィンが、すでに我々のことを知っていた。国こそ違え、遊牧民の連帯と、情報伝達の速さは驚くべきものがある。

ゲルは、構造はシンプルで、設営も解体も容易にできるのに、内部は円形で広く、外気を遮断して暖かくて快適だ。その設営の仕組みや工程は、年に二度の移動時期にしか見られないが、幸運にも長い旅の途中で設営も、解体も体験することができた。

モンゴル東南部、シャルブルトの草原の遊牧民は、ちょうど冬営地から夏営地に移動してきたところだった。

ゲル一式の荷はラクダが運んできた。すぐに荷車が外され、山積みの荷が広げられる。まず、入口の扉が南向きに置かれる。その扉を中心にして、ハナと呼ばれる格子状の骨組みをグルリと回して円形に囲む。

ハナは、ヤナギの細木を格子状に組んであり、交差する接点に穴を開けて皮ひもを通し、両端に結び玉が作ってある。蛇腹式で、簡単に折りたため、運ぶのに便利に工夫されている。格子を広げると3メートル近くなり、ハナの枚数がゲルの基準になっている。ハナ同士の繋ぎは、端の部分を重ね合わせて、ロープで結く。入口の扉に接続すると、たちまち円形の壁が出来上がる。

ゲルの中心には、トーノと呼ばれる天窓が設置される。トーノは、円形の木枠で作られ、中心から放射状に八分割の桟が組まれている。

天窓は採光用で、そこから射し込む陽の角度で時間が分かる。また、寒いときには、外側からウルフという防水布のカバーをかぶせて閉める。天窓の一部には煙突を出す穴を開け、ストーブで暖をとったり、調理をするときには煙突から煙を出すが、閉じるときは煙突をはずしてウルフをかける。天窓はまた、天界と通じる出入り口で、信心深い遊牧民たちは、そこに聖なる青い絹布を吊るす。

円形の壁面が出来上がると、一人がトーノを支える2本の柱を持って中心に立ち、周囲からオニと呼ばれる屋根棒を、天窓と壁面の上端に接続して、屋根の骨組みを組んでいく。天窓の木枠の横面に屋根棒を差し込む穴が彫ってあり、もう一方の屋根棒の端には切り込みが入っていて、格子壁の交差部分に引っ掛けて固定する。

屋根棒のオニは約80本あり、天窓の周囲に放射状に広がって天窓や屋根を支える。骨組みが完成したら、格子壁の外側にロープを巻いて締める。これでもう強風に晒されてもビクともしない。

天窓や屋根棒は赤い色に塗られ、あるいは手の込んだ図柄に彩色される。真下から見上げると、後光を放射して輝く太陽を象徴していることが分かる。天界の中心に君臨する太陽と、母なる大地の乳首のゲル。その交わりによって生命と豊穣が約束される。ここでは自然がまだ原初的な力を失っていない。自然界の精霊に対する素朴な感謝がある。

天窓の真下は、ゴロムトと呼ばれてゲルの中心になる。ここにストーブが置かれる。2本の支柱は神社の鳥居に似ていて、聖域の結界を表している。不用意にくぐろうとすると激しく叱責される。

また、ゲルそのものが神聖な空間で、穢れを持ち込むのを強く戒める。一度、馬の遠乗りに出かけたときにガゼルの頭骨を拾って持ち帰ったら、」ゲルの外に出すように命じられた。遊牧民にとって、生きている動物を解体して食べることは、ある意味では神聖な行為だが、外での動物の死は不浄とされる。死骸には悪霊が憑き、その骸を土に帰すのは自然の力に委ねられる。遊牧民にとって、自然は底知れない神秘と力を秘めた存在で、それに比べて人間の力ははるかに小さい。

骨組みが出来上がると、白くてきれいな布を被せる。これが内壁になり、その上から壁面と屋根に厚いフェルトで覆う。黒いフェルトは黒山羊の毛で織られ、白いフェルトは羊の毛で織られる。分厚く織られたフェルトは脂があって雨を防ぎ、断熱効果がある。

フェルトで覆った上から防水性の帆布を被せ、風で飛ばないように外側からロープで縛る。このロープも、山羊や羊の毛を拠って作られている。遊牧生活では、余すところなく利用され、一切の無駄がない。どんな些細なものでも、それを利用する知恵と技術を持っている。

最後に天窓用のウルフを屋根に乗せてゲルが完成する。3、4人の人間が手馴れた作業をこなし、1時間ほどでゲルが出来上がった。

ゲルの中に家財道具が運び込まれ、同じ位置に家族が座し、ストーブに火が焚かれて、いつもと変わらない生活が始まる。

森のない草原や砂漠で暮らす遊牧民は、家畜の糞が燃料となる。馬や牛、羊、山羊、ラクダなどの動物の糞は、草原の強い日差しと乾燥した風で、数日のうちにカラカラに乾いてしまう。広い草原に散らばった糞を拾い集めてくるのが日課になっている。大人も子どもも、暇を見つけて糞拾いをする。簡素な熊手のようなもので糞を拾い、背中の籠に入れていく。

乾燥した糞だけではない。量が不足したときは生乾きの糞も拾ってくる。一度、子どもと一緒に糞拾いに出かけたとき、牛が排泄したばかりの柔らかい糞を、何のためらいもなく素手でかき集めた。遊牧民の子どもは、それをみじめとも、恥ずかしいとも思わない。遊牧民の誇りと尊厳が、子どもにしっかりと受け継がれている。

乾燥した糞はアルガリという。簡単に火がつき、よく燃える。火が柔らかい。生乾きの柔らかい糞はホリゴリという。アルガリと混ぜて燃やすと火持ちがする。

もっとも火力が強いのがフルツンで、羊の囲いの中に堆積した糞だ。羊は遊牧民にとって一番大切な財産で、一家で数百頭の羊を飼っている。その羊の群れを草のあるところへ放牧に出かけるのが欠かせない日課になっている。

羊は、夜に狼に襲われる危険がある。そのため、放牧から帰って乳搾りが終わると、群れを柵の中に入れられ、そこで糞をする。普通、健康な羊はビーダマ大の糞を80個から100個する。羊が100頭以上いると、パチンコのフィーバーを当てたように、たちまち山になる。それを群れが踏み固めて層になって堆積していく。

春、夏の雨に濡れ、秋まで乾燥させながら、必要に応じて掘り崩してきて燃やす。火力が強く、ストーブにかけた鍋が振動するほど激しく燃える。冬でもゲルの中は裸でいられるほど暑い。火持ちもする。

糞は、燃料にするだけでなく、寒いときはゲルの床下や布団の下に敷くとポカポカと暖かい。

ヒマラヤの山岳民族も、家畜の糞を燃料にしている。樹木のほとんどない高地の家では、牛やヤクの糞を外壁に、ナンのようにペタンと張りつけて乾燥させている。ハイカーはそれを一枚いくらで買って暖をとる。

チベットでは、茶店でヤクの糞せんべい買って、穴があいたブリキ缶で燃やしたら、遠巻きにしていた貧しい巡礼者の群れが一斉に集まってきた。あっちから、こっちから、千手観音のように手がのびてきた。糞を燃やした小さな火を核にして人が寄り添える。炎はまもなく消えたが、人々が体を寄せ合って、敗れた天幕の隙間風を防ぎ、体温が伝わって暖かくなった。

モンゴルの草原や砂漠では、家畜の糞が遊牧生活を支えている。人間の糞は何の役にも立たない。表土が薄く、農耕ができないために土を肥やす肥料にもならない。だが、その人間の糞を犬が食う。

そこには、自然界の循環や輪廻の、深淵な采配が働いているような気がする。地上のあらゆる生物は、見えない力によって生かされている。だから、人間は命ある限り、生きる努力をしなければならない。

モンゴルの遊牧民の暮らしは、その素朴な真理を教えている

ゲルの中に家財道具が運び込まれ、同じ位置に家族が座し、ストーブに火が焚かれて、いつもと変わらない生活が始まる。

森のない草原や砂漠で暮らす遊牧民は、家畜の糞が燃料となる。馬や牛、羊、山羊、ラクダなどの動物の糞は、草原の強い日差しと乾燥した風で、数日のうちにカラカラに乾いてしまう。広い草原に散らばった糞を拾い集めてくるのが日課になっている。大人も子どもも、暇を見つけて糞拾いをする。簡素な熊手のようなもので糞を拾い、背中の籠に入れていく。

乾燥した糞だけではない。量が不足したときは生乾きの糞も拾ってくる。一度、子どもと一緒に糞拾いに出かけたとき、牛が排泄したばかりの柔らかい糞を、何のためらいもなく素手でかき集めた。遊牧民の子どもは、それをみじめとも、恥ずかしいとも思わない。遊牧民の誇りと尊厳が、子どもにしっかりと受け継がれている。

乾燥した糞はアルガリという。簡単に火がつき、よく燃える。火が柔らかい。生乾きの柔らかい糞はホリゴリという。アルガリと混ぜて燃やすと火持ちがする。

もっとも火力が強いのがフルツンで、羊の囲いの中に堆積した糞だ。羊は遊牧民にとって一番大切な財産で、一家で数百頭の羊を飼っている。その羊の群れを草のあるところへ放牧に出かけるのが欠かせない日課になっている。

羊は、夜に狼に襲われる危険がある。そのため、放牧から帰って乳搾りが終わると、群れを柵の中に入れられ、そこで糞をする。普通、健康な羊はビーダマ大の糞を80個から100個する。羊が100頭以上いると、パチンコのフィーバーを当てたように、たちまち山になる。それを群れが踏み固めて層になって堆積していく。

春、夏の雨に濡れ、秋まで乾燥させながら、必要に応じて掘り崩してきて燃やす。火力が強く、ストーブにかけた鍋が振動するほど激しく燃える。冬でもゲルの中は裸でいられるほど暑い。火持ちもする。

糞は、燃料にするだけでなく、寒いときはゲルの床下や布団の下に敷くとポカポカと暖かい。

ヒマラヤの山岳民族も、家畜の糞を燃料にしている。樹木のほとんどない高地の家では、牛やヤクの糞を外壁に、ナンのようにペタンと張りつけて乾燥させている。ハイカーはそれを一枚いくらで買って暖をとる。

チベットでは、茶店でヤクの糞せんべい買って、穴があいたブリキ缶で燃やしたら、遠巻きにしていた貧しい巡礼者の群れが一斉に集まってきた。あっちから、こっちから、千手観音のように手がのびてきた。糞を燃やした小さな火を核にして人が寄り添える。炎はまもなく消えたが、人々が体を寄せ合って、敗れた天幕の隙間風を防ぎ、体温が伝わって暖かくなった。

モンゴルの草原や砂漠では、家畜の糞が遊牧生活を支えている。人間の糞は何の役にも立たない。表土が薄く、農耕ができないために土を肥やす肥料にもならない。だが、その人間の糞を犬が食う。

そこには、自然界の循環や輪廻の、深淵な采配が働いているような気がする。地上のあらゆる生物は、見えない力によって生かされている。だから、人間は命ある限り、生きる努力をしなければならない。

モンゴルの遊牧民の暮らしは、その素朴な真理を教えている